エイビス・クロコーム、人生のレシピ
目次
秘蔵のレシピ帳に走り書きされた、150年前の一言
括弧書きで”very good”。この何気ない一言は、150年前、料理人として貴族の家で働いた女性のレシピ帳に走り書きされたものです。女性の名前はMrs. CrocombeことAvis crocombe。彼女は、19世紀のイギリス貴族ブレイブルック男爵のカントリーハウスで料理長を務めた女性です。
言葉だけ見ると、何でもない短い文。しかし、この言葉を書いたMrs. Crocombe、彼女の生きた時代、そしてレシピ帳が発見された経緯を紐解くと、歴史の息吹と一緒に人間としての大切な何かが伝わってくるようです。男尊女卑が色濃く、女性の料理人の地位も低かったこの時代の、稀有な女性料理長の秘蔵のレシピ帳。そこに書かれたほんの小さな一言。さあ今回も、今日を生きるヒントを見つけていきましょう。
※彼女の名前の読み方についてですが、いまだに日本語表記が定まっていません。ミセス・クロコンブとかミセス・クロークンとか、本家イングリッシュヘリテージのなかでも定まっていないのが実情です。(イングリッシュヘリテージのYouTubeチャンネルの日本語字幕ではクロークン、クロコンブの2パターンが存在)迷った結果、英語に堪能な知人に助言をもらい、この記事ではミセスクロコーム、またはエイビスと呼ぶことにします。
English Heritageの人気者!”Mrs. Crocombe”
English Heritage(イングリッシュヘリテージ)というイギリスの慈善団体を知っていますか?イギリスの歴史的文化財を管理し保全するための組織です。youtubeチャンネルも開設されていて、なんと100万人以上のチャンネル登録者数を誇るこのチャンネルは、同団体が管理している史跡や遺跡を舞台に動画を作成し、全世界の人々の英国の歴史と文化を紹介する目的で作られました。このチャンネルでMrs. crocombeと呼ばれるエイビス・クロコームは、チャンネルの目玉企画の一つ「Victorian Way」に登場し人気を博すようになりました。
「Victorian Way」シリーズは、イングリッシュヘリテージが管理する歴史的文化財「オードリーエンドハウス」を実際に使い、約150年前のイギリス貴族が食べていた料理や生活様式を紹介するという内容です。そして、かつてオードリーエンドハウスを所有したブレイブルック男爵に料理長として仕え、そのキッチンを実際に切り盛りしたのがエイビス・クロコームなのです。動画の中でミセスクロコームを演じるのは、博物館や教育イベントで歴史的人物を演じる教育活動をしている女優キャシー・ヒッパーソンです。この「Victorian Way」シリーズは、実はただ動画をとるために撮影しているのではなく、オードリーエンドハウスを訪れた観光客のための体験型イベント「ライブクッキング」として展開されています(後述)。
舞台になるオードリーエンドハウスは、ロンドンから車でおよそ1時間半くらいの距離にあります。入場料は13ポンド(2000円弱。イングリッシュヘリテージの会員になるともう少しお安くなるようです)。運が良ければキャシー・ヒッパーソン演じるエイビスに会えるかも?!
エイビス・クロコームの生涯
さて、youtubeチャンネルでその存在が有名になったエイビス。歴史上に生きた彼女本人の生涯をまとめてみました。
エイビスは1839年頃にデボン州マーティンホーの大家族に生まれました。農家のリチャード・クロコームとアグネス・クロコーム夫妻の娘でした。エイビスはすでに13歳になる前には兄ジョンのサポートのために家事をしていたといいます。そして、1861年までに貴族院議員も務めたシドニー子爵(伯爵)ジョン・タウンゼンドのキッチンメイドとして働きます。この時、大きなお屋敷の、そして男性の料理長の下でスタッフの一人として働いたことが、彼女の料理の腕を磨くことになりました。
当時のイギリスには少なからず男尊女卑の気風がありました。料理の世界でもそれは同じで、料理人として認められるのは男性がほとんどでした。料理上手な女性だったとしても、男性料理人よりも地位的に認められることは少なかったそうです。例えば、男性の料理人は「プロとして」白いコック服を身に着けましたが、女性の料理人は普段の服装にエプロンをつけるだけといった具合でした。服装一つとっても、女性の料理人は男性の料理人と同じ土俵に立っていたわけではなかったのです。そんな社会的な雰囲気の中、エイビスは料理の腕を磨いていきます。タウンゼント邸のキッチンスタッフとして働いた後、1871年までの間には、ノーフォークのラングレーホールにあるトーマス・プロクターボーシャン一家の料理人兼家政婦として働きました。料理もしながら家事をもこなす。働き者の女性ですね。
そして1881年より少し前に再び転職し、サフランウォールデン近くのオードリーエンドハウスをカントリーハウス(貴族の田舎の別荘みたいなもの)として置いていたブレイブルック男爵一家の料理長になりました。彼女はオードリーエンドハウスだけでなく、ロンドンのアッパーブルックストリートにある家族のマナーハウスや、ボーンマスのBranksome Towersの海辺の別荘でも料理の腕を振るいます。エイビスはブレイブルック男爵一家に愛着を持っていたようで、彼女のレシピ帳の中には、ブレイブルック男爵や男爵夫人が好んだ料理、味の好みもしっかりと書き留められています。主人に敬愛の念も持ちつつ、男爵家の料理長としてのプライドを感じます。
ちなみに、エイビスの前任の料理長は男性のフランス人シェフでした。当時の男性の料理人の給与は年100〜120ポンド。一方で女性の給与は40〜60ポンドでした。エイビスはブレイブルック男爵一家にとって腕のいい料理人であるのと同時に、男性の料理人よりも大幅に給与が安かったので経済面でもありがたい存在だったでしょう。 ただ、エイビスのように、男性の料理人の下で訓練を受けた経験のある女性は、そうでない女性よりも高い賃金を期待することができたそうで、エイビスも一般よりは高い賃金をもらっていたと考えられています。
エイビスはその後、ロンドンで下宿を営んでいたベンジャミン・ストライドの後妻として1884年に結婚するまでオードリーエンドハウスで料理長を務めました。結婚した当時、彼女は45歳だったといいます。当時としてはかなりの晩婚でしたが、それは彼女が料理人としてのキャリアをいかに大切にしてきたゆえだと考えることもできます。夫ベンジャミンは1893年に亡くなりましたが、エイビスは継娘アンナ=ジェーンとともに下宿事業を続けました。そして1927年に88歳の大往生を遂げたのでした。
幻のレシピ帳が発見された奇跡
2008年、英国の400を超えるモニュメントと遺跡・史跡を保護する慈善団体であるイングリッシュヘリテージは、「Heritage Lottery Fund」という、宝くじ基金を活用し、数百万ポンドを投じて施設修復を行いました。その時に、オードリーエンドハウスの当時の使用人たちが生活していた建物も昔の姿を取り戻しました。その建物は、あるプロジェクトを振興するための体験型施設として一般公開されることになります。そのプロジェクトとは、当時そこで働いた実在の使用人たちに扮した人物を配置し、生活の様子をそのまま再現するというものでした。そして、そこにわれわれ一般の観光客が訪れる。つまり、その場を訪れると過去に迷い込んだような体験ができるんです。ただ史跡を見るだけではなく、まるで過去にタイムスリップしたかのような体験ができるなんて最高にステキですよね。
プロジェクトの中心はライブクッキングとよばれる体験型イベントです。一般観光客が、実在した使用人たちに扮したキャストと話をしながら、当時のレシピを彼らに教えてもらうというもの。ここでの人気者はもちろん、オードリーエンドの料理長・ミセスクロコーム。スタッフとしてプロジェクトの中心になったのは、食物歴史家アニー・グレイ博士、そして初めてミセスクロコームに扮したキャシー・ヒッパーソンでした。当初、その企画のレシピはその時代にふさわしい文献を参考にしていました。
しかし2009年、奇跡が起こります。
その頃すでに人気イベントとして認知され始めていたオードリーエンドハウスのライブクッキングとエイビス・クロコーム。偶然にも、この場所をとある人物が訪れます。彼の名前はロバート・ストライド。エイビスの夫であるベンジャミン・ストライドの甥にあたる人物でした。彼はライブクッキングではなく、そこで開催されるコンサートを目当てにオードリーエンドハウスを訪れました。が、購入した入園券をふと見ると、「Avis crocombe」の名前があります。その名前は記憶に火をつけました。
「ご先祖さま!?」
と、言ったかどうかはわかりませんが、エイビスの名前をロバート氏は知っていました。そして彼は自宅の引き出しの中にエイビスの手書きのレシピ本を持っていることに気づきました。 彼はそれをイングリッシュヘリテージに寄付し、ライブクッキングのチームはまさにエイビス本人のレシピをプロジェクトに取り入れることになったのでした。
エイビスの華麗なヴィクトリアン・レシピ
エイビス直筆のレシピ帳という第一級史料は、ライブクッキングプロジェクトをより史実的にしました。その料理のスタイルは、1880年代のオードリーエンドハウスで実際に行われたものなのです。 胸熱ですよね。
エイビスは実に多くのレシピを書き残しています。それは、彼女オリジナルのレシピであったり、当時の料理作家イライザ・アクトンの本や、新聞に掲載されたレシピ、知人に教えてもらったレシピも含まれています。
イングリッシュヘリテージの動画では、そんないくつかのレシピが紹介されています。
このほかにもおいしそうな料理と、ひょうきんで魅力的な”Mrs.crocombe”の姿が盛りだくさん!ぜひチェックしてみてください。
カッコ書きのvery good
さて、エイビス・クロコームとイングリッシュヘリテージの魅力について語ったところで本題に入ります。奇跡の発見とされたエイビス直筆のレシピ帳。そのなかにエイビスの特にお気に入りがあります。それは、カスタードプディング。
このレシピがエイビスの若いころ、まだ料理を始めたころにお手本としていた本からのレシピだと綴られています。料理を始めたころというと、まだ13歳くらい、兄のもとで家事を手伝い始めた時期でしょうか。ブレイブルック男爵夫妻はカスタードが大好きだったそうです。きっとエイビスが何度も何度も作ったなじみのレシピでもあったのでしょう。
そして、直筆のレシピ帳にあるこのカスタードプディングの欄のタイトル横には
(very good)
と書かれていました。とても良い。
このvery goodは、いったい何に関してのvery good でしょう。
主人のお気に入りだから?コスパがいいから?見た目が映えるから?そして、味がいいから?それとも、そのすべてかもしれません。
ただ確実なのは、エイビスが料理の道を歩み始めた当初からこのレシピを大切にしてきたこと。
仕事には、その人の生き様や考え方が出るといいます。料理に関して最も大きいところはもちろんその味でしょう。けれども、この料理にはエイビスの料理人としての、矜持のようなものが表現されているように思います。
この白いプディングと、それを囲む濃い赤のジャム。まるで、白いコック服を許された男性シェフと、紅一点ではないにしろ、同等に渡り歩こうとするエイビスの女性料理人としての生き様のように。
そんなものは憶測にすぎませんが、女性料理人としての仕事は当時の社会においては現代よりも困難な部分もあったはずです。その中で彼女本人が自分の料理人人生に対して思っていることは……このカスタードプディングのように”very good”であるはずだと感じます。
まとめ
今回は、19世紀のイギリスに生きた料理人、エイビス・クロコームを取り上げました。世界中でどんどん人気が高まるエイビス。この秋には、奇跡のレシピ帳をもとにしたクッキングブックも発売されます。150年の時を越えてよみがえる、一人の女性の生き様は、これからもいろいろな媒体で認知されていくことだと思います。市井の一婦人と言われればそれまでですが、こうして歴史に名が残るからには、それなりの理由がある気がします。私たちも、自分の仕事や生活に一途に向き合い、満足の行く「ベリーグッド」な人生を歩みたいものですね。